ちいかわの映画は、大人の知性のリトマス試験紙

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はじめに

いま、ちいかわの映画が大きな話題を呼んでいます。

私はこの映画を、「大人の知性のリトマス試験紙」だと思っています。
少し大げさに聞こえるかもしれませんが、
ある意味でとても恐ろしいことだ
とも感じています。

ネタバレは避け、すでに公表されている範囲でお話しします。
この映画には、海に住む「セイレーン」という生き物が登場します。
そして、そのセイレーンと島民との争いが、物語の主題となっています。

たったこれだけの情報でも、子どもにどれだけのことを語れるか。
そこに、大人の知性の差がはっきりと表れます
。

恐ろしいと申し上げたのは、試されているのが子どもではなく、
私たち大人の側だからです。

「面白かったね」で終わらせるのか、そこから話を広げられるのか。
その差は、映画の出来ではなく、大人の頭の中の引き出しの量で決まってしまいます
。

セイレーンは、もともと鳥だった

そもそもセイレーンは、ホメーロスの『オデュッセイア』に登場する怪物です。
そこで描かれるセイレーンは、人魚ではなく鳥の姿をしていました。

ちいかわに登場する人魚のセイレーンは、中世以降に生まれた姿です。
この変化の背景には、航海技術の発達がある
といわれています。

沿岸部を航行していた時代、人間にとって恐れの対象は岸辺に生息する鳥でした。
それが大海原へ出られるようになると、
怪物の姿もまた、海のものへと変わっていったわけです。

さらに、アジアの人魚伝説との関わりや、
アンデルセンの『人魚姫』の影響を指摘する意見もあります。

一匹の怪物の姿かたちの変化にも、人間の技術と世界観の広がりの歴史が刻まれているのです。

誰が悪いのか ── 法という視点

次に、法的な観点です。

この物語で、登場人物の誰が悪いのか。
そもそも、なぜ争いが起きてしまったのか。

この点を「ちいかわの世界に法がないからではないか」、
という視点で論じておられる弁護士の方々がいらっしゃいます。


私も、この意見には大賛成です。
法とは何か。法の限界はどこにあるのか。
なぜ法は生まれたのか。

ちいかわを入り口にして、子どもとこうした話ができるのです。

私刑と憎しみの連鎖は、なぜ生まれるのか

詳細は省きますが、
この映画で私刑(リンチ)が生まれ、憎しみの連鎖が続いていくのは、
法が機能していないからだと私は考えています
。

法が機能している社会であれば、
登場人物の憎しみは相手個人ではなく、
法の欠陥や制度の不備へと向かうはず
です。

そうであれば、あの争いは未然に防げた可能性があります。

裏を返せば、法とは、争いを個人と個人の戦いにしないための仕組みだ、
ということでもあります。

行政書士として、日々、制度と人との間に立つ仕事をしておりますと、
この視点はまったく他人事ではありません。

一つの作品が、いくつもの扉になる

ほかにも、
国際政治学の観点から、
哲学の観点から、
精神科医の観点から、
あるいは刑事の観点から、
この映画を語る方がいらっしゃいます。

ちいかわの映画を切り口として、子どもに何を伝えられるか。

それは、その人がこれまで何を学び、何を考え、社会とどう関わってきたかを、
そのまま映し出します。

だからこそ、大人のリトマス試験紙なのです。

おわりに

私は、子どもたちに、ちいかわの映画を起点として、
少しでも文化や歴史に触れてほしいと願っています。

社会に対する問題意識を持ち、
「自分ならこの争いをどう解決できるか」を自分の頭で考える。

そのきっかけを与えられる大人でありたいと思います。

そしてそのためには、私自身が学び続けなければなりません。
この映画を観て、強くそう感じた次第です。

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