昨日の日経新聞である記事を見つけて、
思わず、見入ってしまいました。

動物にも、方言があるというのです。
シャチや、インコたちの鳴き声は、住む地域によって、ちがうのだとか。
でも、私がいちばん驚いたのは、そのあとに続く、理由のほうでした。
なぜ、動物は方言を使うのか
その記事には、こう書いてありました。
方言は、血のつながりの近い仲間を、
避けるための、しるし。
血のつながりが近い者どうしで、子を残し続けると、どうなるか。
しだいに、種そのものが弱っていって、
多様性が、失われていくのだそうです。
そうなると、病気にも弱くなります。
だから動物たちは方言を頼りに、あまりに近い相手を避けている。
そういう可能性が、あるのだそうです。
※動物の鳴き声の「方言」や、その役割については、まだ研究の途中の話です。
「〜かもしれない」という段階の、ひとつの説として読んでください。

それを読んだとき、ある短歌がふいに胸によみがえってきました。
ふるさとの訛(なまり)なつかし
停車場(ていしゃば)の人ごみの中に
そを聴きにゆく
― 石川啄木『一握の砂』より
ふるさとを遠く離れて暮らす人が、駅の雑踏で、故郷の訛りを耳にする。
それが懐かしくて、わざわざ人ごみへ、その声を聞きに行くという歌です。
人にとって方言は、こんなにもあたたかく、心を癒やしてくれます。
ところが、動物にとっては逆でした。
方言は、命のつながりを守るための、除外の判断基準なのです。

おなじ方言が、
人には、癒やしで、
動物には、避けなければならない印なんです。
このちがいに、私ははっとしました。

これは、会社にも、あてはまる
読みながら私は、会社のことをあれこれ考えました。
どんな会社にも、その会社だけの独特の言葉って、ありますよね。
もちろん、理念を浸透させることは、とても大切なことだと思います。
でも、社長の言葉だけが正解になると、いったいどうなるでしょうか。

社長の言葉のコピーのみが、会社に蔓延する。
それ以外の考えは、まちがいだと、頭ごなしに否定される。
ときには、それ以外を、
見下すような空気さえただよいはじめる。
ちがう意見が、ひとつずつ消えて、新しい芽も摘まれていきます。
気がつけば、まわりは同じ顔ぶれ。同じ考えの人ばかりになります。
これは、血の近い者だけで、
子を残していくのと、同じです。
こうして、多様性は失われていき、
同じ意見の人達を排除し、
結果として会社の免疫力も、落ちていくように感じます。

内輪の言葉が、おごりに変わるとき
かつて、業界の仲間うちでしか通じない言葉を、得意げに使う人たちがいました。
そんな内輪の自慢を、TV番組が面白おかしく茶化していました。
ところがその業界も、今となってはすっかり元気をなくしています。
内輪の言葉だけが絶対になって、外の世界を見下しはじめたとき。
そういう「おごり」が見えると、
私はいつも、末恐ろしくなります。
◆ そして、私自身のことも
これは、お恥ずかしい私の話です。
私自身にも、打ち込んでいる、とあるスポーツがあります。

その世界では、大きな団体だけが幅をきかせています。
小さな団体や声は、押しやられ、嫌気がさした人から去っていく。
新しい人も、なかなか入ってこない。そうして、年々しぼんでいます。
身近な世界が、しぼんでいくのは、ほんとうに、さみしいものです。
だから、ちがう言葉の人と
だから、私はあえてこんなふうに決めています。
自分とちがう言葉を話す人と、すすんで、交わっていこう。

自分とちがう言葉を話す人と、すすんで、交わっていこう。
考えのちがう人と、とことん話す。
自分とはちがう世界を、のぞいてみる。
それがきっと、自分の、そして組織の免疫力になるはずだ。
ちがいを受け入れられる者だけが、最後には、強く生き残っていく。
私は、本気でそう思っています。

……なんて、えらそうなことを、ずいぶん書いてしまいましたが。
私は、方言が大好きです。
残念ながら、私はあちこちを転々として、これという方言を持っていません。
いろんな土地の訛りが混ざった、へんてこな言葉を話しています。
だから、生まれも育ちも〇〇、なんて、生粋の方言を持つ人がうらやましい。
私自身の無い物ねだりなのかもしれません💦


